書斎



英語の発想

『通訳・翻訳ジャーナル』に連載された「ポプリ」


以下は、2000 年 1 月から 1 年半にわたってイカロス出版社の『通訳・翻訳ジャーナル』の「ポプリ〜日本で学ぶ英語の発想」欄に寄稿した翻訳に関するエッセーをまとめたもので、同社のご好意によりここに再録しました。一部同誌に掲載されなかったものも含まれています。話題はあちらこちらに気ままに飛んでいますが、主として「英語と日本語は、書くときも話すときも発想が違うので、翻訳者は常にそれを念頭において翻訳、学習してください」ということが言いたかったのです。



アイコンはじめに

英語の発想を求めて

英語を学ぶということは数学の勉強とは異なる。まず、数学なら2+5=7とか100+245=345が理解できるようになれば3000+28675の解も導き出せる。しかし、英語では、イヌがdogでライオンがlionだと知っていても、ガチョウがgooseでその複数形がgeeseだと推測できない。ではできるだけ多くの単語を覚えることが大事かというとそうではない。数学なら公理や公式をたくさん覚えるほどそれを組み合わせて高度な数学を理解できるが、英語では単語を記号、文法を記号を並べるための規則と理解している限り、いくら単語を暗記し、文法に強くなっても英米人に理解してもらえる英語を話したり、書いたりできるようにはならない。「そんな言い方はしないよ」と言われたらそれでおしまいなのである。

各言語には、その背景としての文化があり、言語と文化は切り離すことができない。日本の英語教育に関する批判がしばしば行われるが、小学校から学習を義務づけようとか、英米人との会話の時間を増やそうという、およそ言語の本質を理解しない見解のみが聞かれ、英語を英米の文化といっしょに教えようという当たり前の意見を聞いたことがない。

英単語を記号としてとらえる限り英語学習の進歩はない。英米人が日本とは歴史、習慣を異にする生活の中で、どのような発想で英語を使っているかを理解する努力は楽しく、それを知ることにより応用性の高い英語を身につけることができる。大事なことは、英米人が日本人とは異なる発想でものを考えていることを知り、彼らの発想を知ろうとする努力をすることである。そして、この観点があれば、英語を学習するために英米に留学、駐在する必要はないのである。日本にいても、ウェブサイト、雑誌、新聞の英語を読み、そこでいくらでも彼らの発想を観察できるのである。

では、英語を読みながら英米人の発想をたずねる散歩に出てみよう。気楽におつき合い願いたい。

  流星群

32年に一度の天体ショーと予想された11月18日未明の獅子座流星群は空振りに終わった。私は仕事に追われて半徹夜状態が数日続いているにもかかわらず、大井埠頭まで出かけたが、何も見えず、寝不足がひどくなっただけであった。

ところで、流星群を英語で何と表現しているかと思って、米国の The Planetary Society のウェブサイトにアクセスしたら、次のように出ていた。

Leonid Show Live from Japan!

Even if you don't live in Asia, you may be able to see the Leonid meteor shower on November 17 between the hours of 2 a.m. and dawn. But the early morning sky viewed from Japan may provide a spectacular show. Observatories from around that country will share the meteor shower with the world live via the internet.

The coming Leonid storm is expected to peak around 20:00 h UTC on November 17, which corresponds to 05:00 local time on November 18 in Japan.

これは、まだ 1 日前の記事で the early morning sky viewed from Japan may provide a spectacular show. と書かれている。いつもながら感心するが、このように the early morning sky というようにモノを主語にして書くといかにも英語らしい。わかっていても、なかなかこうは書けない。私なら、A specutacular show を主語にしてしまいそうだ。

ところで「流星」は予想通り meteor、つまり「隕石」であった。日本人の概念では、流星が地上に落ちてきてそれを見つけると隕石だが、英語では地上に落ちても落ちなくても隕石だ。モノの概念は民族、言語によって違うので注意が必要だ。ただし、それほど科学的ではない一般的な用語としては shooting star がある。日本語の「流れ星」にぴったりか。

なお、UTC は universal time cordinated(原子時間を基にした「協定世界時」)。

  Quality と品質

以下は Web 上に掲載された 12 月 1 日付け Los Angeles Times 紙の "Student of Life" と題された記事である。今でもボランティア活動に励む Frances Bond という 90 歳の修道女を紹介している。英単語の文化(生活)に密着した使用方法を学ぶには、政治経済に関する記事よりも、このような記事がおもしろい。

The years haven't dimmed Frances Bond's innate curiosity. It's a quality that fuels her desire to serve others and stay active.

quality という語は、経済、企業活動分野で頻繁に「品質」の意味で使われ、日本語にもなりつつあるので、英語通の方でもこのような文章を読むととまどうのではないだろうか。

リーダースプラスは、「質, 素質, 資質, 品質」を意味として挙げている。品質という意味を知っていれば、当然「人間の品質」-> 「素質、資質」という推測ができるわけだが、こわいのは「品質」が当然の訳として頭にあると、quality が人間の属性として使われるとは予想できなくなってしまう。

なお、米国人の日英翻訳者に人気のある Merriam Webster's College Dictionary で quality を引くと、紛らわしい言葉として quality, property, character, attribute を並べてその違いを説明している。これらの語が紛らわしいと感じるのがネイティブの発想なのであろう。

余談だが、同じ記事の中でこの修道女が子供のころの記憶を

I was 3 years old and my father tossed me into Lake Manitou. Instinctively, I began to dog paddle and swim." と語っている。英語にも「犬かき」という言葉があることを初めて知った。paddleという表現がなるほどと思わせるが、思わずスヌーピーがカヌーを漕いでいる姿を想像してしまうのは、まだまだネイティブの発想になっていないということか。

  Magic Number

翻訳者が日本語を英語にするときに悩むのが日本語英語(Japlish)である。日本で発明された英語もあれば、英語とはまったく意味の異なる使い方をされているものもある。そのような場合には、適切な英語の単語は何かを確認する作業に手間取ることになる。また、それに相当する英語があっても、文章を書いた方が、正しく意味を理解してその単語を使っているかどうかが怪しい場合もある。

1998 年 12 月 7 日付け日本経済新聞の朝刊に、「マネーサプライの前年比の伸びや、名目成長率などの日本経済を示す指標の動きが異常で、これを日銀の××経済調査課長が三つのマジックナンバーと呼んでいる」という趣旨の記事が出ている。この「マジックナンバー」は明らかに magic を mysterious と取り違えているとしか言いようがない。このような社会的影響力のある方が新しい和製英語を作ってしまうと、たちまちそれをマネする人が出てくるのが恐ろしい。

なお、英語の magic number は本来原子核について使われる用語で、その日本語は「魔法数」。また日本では野球でおなじみのマジックナンバーは多くのスポーツで使われている。(この文は、読者の方からのアドバイスをいただき、一部書き換えています。)

  Chain letter

アジア諸国が不況に陥ってからの国際世論は、IMF に厳しく、米国内にもこれに同調する意見が増えている。Business Week の 98/12/7 号の Economic Viewpoint も、IMF はロシアに対して行った巨額の借款を返してもらえるのかという疑問を投げかけ、次のように評している。

My prediction is that the IMF will come up with a way to keep up the chain-letter game in which it provides Russia, Ukraine, and Indonesia with enough money to keep payments "current."

chain-letter game とは、不幸の手紙のように、受け取った人に受け取ったものと同じ内容の手紙を数人に出すことを要求するもの。最近は、インターネット上でこのようなメールを受け取ることがある。受け取ると不愉快だし、それに従わないと不安を感じる人がいるかもしれないが、無視するのがネチケットであろう。そうでなければ回線がパンクしてしまう。

直接関係ないが、やはりときどき比喩的に引用されるのが musical chairs というゲーム。これはいす取りゲームで、円形に配置されたいすの回りをいすの数より 1 人多い人数のプレーヤが輪になって歩き、音楽(歌?)がやんだときに一斉にいすに座ると一人余って座れなくなってしまう。

日本の閣僚や企業人は始終いす取りゲームをやっているが、日本の評論にはあまりゲーム名など出てこない。それが日本の評論を読んでも身近に感じない原因か。

  Bug はどんな虫?(99/4 月号)

この冬の東京は異常乾燥で、インフルエンザが猛威を振るっている。私も相当の注意を払っていたにもかかわらず、恒常的に寝不足状態にあるため、数年ぶりに寝込むようなインフルエンザにかかってしまった。風邪は、その症状も、その症状を抑えるための薬も翻訳の生産性に大いに影響するので翻訳者の大敵だ。

風邪は世界共通の病なので、昨年(1998 年)12 月に LA Times と日本経済新聞が 2、3 日の差で似たような風邪に関する記事を載せていた。以下は LA Times の書き出しの部分。

FLU SEASON

The cold and flu season is already upon us and the outlook is bleak. Aside from getting a flu vaccine (and time is running out for that), there isn't much to do now that the inevitable winter-time bugs are descending in force, other than treat the symptoms, get extra rest and drink plenty of fluids.

The cold and flu season is already upon us を読むと、ふ〜ん、そういう言い方もあるのかと感心する。ところで、風邪のばい菌を bug と表現している。最近は、コンピュータがいたるところに入り込んで、バグというプログラミング用語もポピュラーになり、多くの人がバグは「虫」だと知っているが、どんな虫かを知っている人は少ない。日本語では何でも「虫」だが、英語では worm と insect は違う。じゃあ、bug とは何だ。これには、worm も insect も含まれ、さらに a germ or microorganism especially when causing disease(Merriam-Webster)つまり「ばい菌」も含まれる。

ところで、風邪は世界中でポピュラーな病気だが、ご存じのように効果的な薬がなく、したがって各地域でそれぞれ独特な対処をしている。インドネシアにいたときには「グラジャヘイ」という「ショウガ」と「砂糖」を混ぜた粉末がビンに入って売られていた。当時若かった私は、風邪を引くとグラジャヘイをお湯に溶いて飲み、テニスをすると治ってしまった。

アメリカではドラッグストアや健康食品店でビタミン剤と並べて亜鉛のタブレットを売っていて、これがのどに効く。アメリカ人ならだれでも知っているが、アメリカで暮らした日本人でも意外に知らない。

ところで旧い文化を持つ日本の風邪に対する民間薬は何かと考えると、淋しいことに上記のような全国的にポピュラーなものが思い浮かばない。これは意外なことだ。ただし、例のマスクは日本独特の文化だ。医者にいわせると、あのガーゼマスクは他の人からの感染を防ぐ意味はあるが、風邪を引いた人自身の咳、くしゃみは筒抜けで、風邪を回りの人に移さないようにする効果はほとんどないらしい。

  Right(権利)- right と privilege の違いが明確に認識されているか(99/5 月号)

以下は、 Scientific American 誌の昨年(1998 年)11 月号に載ったヨーロッパ自動車メーカーの広告の一部である。

At Opel, we consider safety to be a right, rather than a privilege. No matter how much one can afford to spend on a car.

この後には同社が開発した、正面衝突事故の場合に運転者の足に衝撃が加わらないようにするブレーキペダルの紹介が続く。

短いパラグラフだが注意が必要だ。この広告文を読んですぐに理解できた方は一流の翻訳者と言える。まず、right。日本人は現在に至るまで人権意識が希薄で、right と privilege の違いがピンと来ない人が多い。right は本来個人に備わっている人間としての権利で、欧米ではこれを勝ち取ってきた歴史があるのに対し、多くの日本人にとっては、与えられたものであることがその原因と思われる。それでは、社会的な地位や権力にともなって与えられる privilege と区別が付かなくなってしまう。日本において人権の確立に大きな役割を果たした「自由民権運動」についてさえ、最近発行された「翻訳と日本の近代」(岩波新書)の中で丸山真男は『民権とは people's right ということで西洋人にはおかしく聞こえる。人権は個人が有するもので、人民が有するものではない』という趣旨を述べている。いずれにせよ、right と privilege の区別が付かなくては、この文は何も訴えてくれず、逆に欧米の読者にとっては right と privilege の区別が常識となっているのでこの広告文が成り立つと言える。

次に No matter how much だが、「クルマにいくら高いお金を払っても」と訳してしまいそうだ。それでは、上の文とつながらない。ここは、「いくらのクルマを買うかとは関係なく」という意味だと理解しないと話がつながらない。翻訳者なら誰でも知っている「No matter how + 形容詞」は、このように訳すこともあるのである。

ところで、皆さんがしっかりと人権を認識しても、それを訳すときには一般日本人の人権についての認識レベルを理解してそれに合わせた翻訳を行う必要がある。したがって、日本の読者を想定すれば、この広告文は次のように訳すこともできる。

『Opel はこう考えます。安全はすべてのドライバーに保証されるべきで、高級車に乗らないと保証されないものではありません。』

  2 つの世界地図(99/6 月号)

1999 年 2 月 9 日付けの BusinessWeek 誌の特集は衝撃的である。表紙に印刷されたキャッチ(Cover lines)は Will it be the Atlantic century? だ。本文には、次のように書かれている。

Once again, North America and Europe are the global anchors of prosperity and stability, while the rest of the world struggles in economic limbo.

最近の欧米の経済記事では、日本はすでに恐れるべき国ではなく困った国として取り扱われている。日本人であっても、ここまで愚策な政府を見てはそれも当然の評と思える。しかし、通貨統合を果たそうとして息軒昂なヨーロッパ諸国と記録的な長さの好況を謳歌する米国が大西洋を隔てただけの間柄で、密接な経済圏を形成する可能性のあることは日本で販売されている太平洋を真ん中に描いた地図からは想像が付かない。欧米で売られている大西洋を真ん中に描いた地図を見れば日本は地図の一番右端に位置するちっぽけな島国である。この地図を見れば、なぜ日本が far east と呼ばれるかは一目瞭然だ。

今回の特集記事のように21世紀は大西洋の時代と言ってくれると、なるほどと両大陸の近さを意識させられるが、実はこれは常に変わらぬ事実で、学校で日本の地図だけを見て教育を受け、社会に出てもそれ以外の地図を見る機会がほとんどないと、そんな大きな事実が意識の外に出てしまっていることが恐ろしい。欧米の人々にとっては、大西洋が中心の地図が常に頭にあるわけで、通常はこの事実を前提に国際政治、経済関連記事が書かれているはずである。しかも、これは常識である以上いちいち解説に現れない。アジアの国民、特に国外で教育を受ける機会の少ない日本人は、国際経済記事を読むときには、この事実を頭の隅に置いておかないと大筋を見誤る恐れがある。

  Life Together (非論理的なのは日本人か日本語か)(99/6 月号)

先月号のこのコラムでドイツのカーメーカーの広告を取り上げたが、それで気が付いたのが日本の大手カーメーカーの広告である。三田のあたりを通ると大きな屋上広告に次のように書かれている。

LIFE TOGETHER

人間のやさしさをクルマに

私もそうであるが、日本人翻訳者で英 → 日と日 → 英の両方をやる人は、英日の場合と比べて日英の場合はまず原文である日本語の意味をくみ取るのに苦労することが多い。多くの日本人が論理的な文章の組立が苦手で、同じ企業で働く同僚を除けば、外部の日本人にさえ理解しがたい文章を書いて、それを海外に発表しようとしているケースが少なくない。こういうと日本語は論理的な内容を表現するのに向いていないという意見が出てくるが、これは言語の責任ではなく日本人の思考方法の問題だと思う。お互いに腹芸で理解できる社会では論理性が要求されないので、そのような文章を書く必要性が少ない。だから、日本から海外への発信が少なく、他国から日本人は何を考えているかわからないと評されることになる。

上の宣伝文句に戻って、このコピーが何を言いたいのか理解できる日本人はどのくらいいるのであろうか。日本のみをマーケットとする中小企業ならともかく、海外に製品の相当量を輸出している大手企業がこのような「名詞」+「副詞」といういとも不思議な英文フレーズを作って、それをテレビでさえ流しているのであるから、多分数千万円か数億円をこの広告に使っているのであろう。そして、これほどの企業がそうするからには、このような宣伝文句が日本人社会にクルマを売るのに効果的なのであろう。英米でこのような宣伝文句を流せばバカにされるのは目に見えているが、日本人にはムードだけで受け入れてもらえるという好例かもしれない。先月号のドイツメーカーの広告の場合には、その論理性をそのまま訳したのでは日本人社会に受け入れられる広告とはならないので、それに注意して訳す必要があるだろうと述べたが、逆に上の広告の英訳を依頼されたらどうなるであろうか。どう考えても、どのような社会層を対象として何を訴えたいのかが理解できないので、私であれば翻訳をお断りすることになると思う。

これだけ国際化が進んだ時代には、外国語に翻訳する可能性のある技術文書は、翻訳することを前提に、できるだけ社外の論理的文章を書ける日本人に書かせるべきではないだろうか。しかし、大企業であっても、なかなかそれだけ実用的な英語を書ける人材がいないものと思われる。

  論理的思考 (99/7月号)

前号、前々号でクルマの広告に関して日本人の論理性を論じたので、そのついでにもう 1 例をあげてみたい。

以下は私の主宰する研究会で使った課題文の一部で、コンピュータのプログラミング言語に関する解説書の、OBJECT-ORIENTED PROGRAMMING という節の第 1 パラグラフである。内容的にも複雑な状況が説明されているわけではなく、特に難しい単語が使われているわけでもない。しかし、メンバーには相当優秀な方々が参加されているのであるが、全員がこのパラグラフで躓いて閉まった。それで、多くの翻訳者が手こずる例として検討してみたい。

For the last 20 or so years, structure has been the watchword in computer programming. Structure has always been consistent with our view of computers. Computers are designed and built by scientists, engineers, and, to a large degree, other computers. This has led our philosophies about computer languages down a path of immaculate planning, organization, and structure.

わずか 4 つの文からなる短いパラである。第 1 文は、watchword がキーワードで、英和辞書を引いて「合い言葉」とか「標語」を充てても意味が通らない。たとえば、私の愛用する英英辞典 COLLINS COBUILD を引くと、"a word or phrase that sum up the way that a particular group of people should think or behave" と解説されているので、パラ全体を読むと、「これまでの約 20 年間、コンピュータプログラミングに関しては構造が重視されてきました」と訳せばいいことがわかる。第 2 文も平易な文だが、日本語にしようとすると難しい。しかし、そのスケルトンは structure is our view of comupters であると気が付けば、「構造は、常に私たちのコンピュータに関する見方であった。」 → 「私たちがコンピュータについて考えるときには、常に構造という観点から眺めてきたわけです」と訳せる。一番問題だったのは、第 3 文で、「コンピュータを設計し、作り上げるのは科学者であり、技術者ですが、同時にコンピュータ開発の多くの工程にコンピュータが利用されています。」という意味だが、なぜこのような文がここに唐突に入ってくるのか誰も理解できなかった。そして第 4 文は、This has led something down a path がスケルトンだとわかるが、このパラ全体が何を主張したいのかが理解できないと、This が何を指すかがわからない。

以上を整理すると、第 1 文の watchword はパラ全体を把握しないと適切な訳が思い浮かばないが、第 3 文が唐突な印象を受け、第 2 文以下の 3 文の結びつきがわからない。したがって、第 4 文の This が何を指すかがわからない、という堂々巡りでこのパラが難解なパラになってしまうのである。

ここで感じたのが、やはり日本人が論理的な説明を行う訓練を受けていないという事実である。このパラは典型的な論理構成になっていて、多分、アメリカでは、一般的な教育を受けた人々にとっては難しい文章ではないのではないかと思う。そうでないと、アメリカ人向けに書かれたこの解説書で、平易な文章の間に突然難解なパラが 1 つ入っているということになりの、著者がここで気が狂ったことになってしまう。

通常何かをひとに説明する文章を書こうとすれば、まず自分が何について話したいのかを明示するためのトピックセンテンスを先頭に置く。次に、自分の説明を根拠づけるために多くの人が知っている事実なり、世の中に受け入れられている他人の主張などを援用する。そして、最後に自分の結論をノベルのがもっと自然な、したがって一番多く使われる論理構成となる。

英語においては、1 冊の書物、その中の各章、節、項、そしてパラグラフさえも可能な限りこの構成にしたがって記述される。その目で上記のパラグラフを見ると、まさに教科書的な論理展開となっている。最初の文がトピックセンテンスで、著者は、「最近の 20 年間のプログラミングの世界では、常に構造が注目されてきたと」テーマ(自分の観点)を提示し、次にコンピュータに関する一般的な見方を紹介し、それが考え方のみではなく実際の産業でどのようにコンピュータが作られているかを述べている。そして、第2文と第 3 文を根拠として最後に結論を述べている。

この論理の流れをとらえれば、第 3 文の果たす役割も明らかで、何を主張しようとしているかは一読瞭然である。

このパラの試訳を示す。

『これまでの約 20 年間、コンピュータプログラミングに関しては構造が重視されてきました。コンピュータについて考えるときには、常に構造という観点から眺めてきたわけです。このような観点から、科学者や技術者がコンピュータを設計、製造し、その工程に多くのコンピュータが利用されています。このような事情から、コンピュータ言語については、できるだけ綿密な計画と精緻な構造が重要という考え方が定着しました。』

  日本人の書く英語 - idiom は難しい(99/8 月号)

英米人の翻訳者は、日本人が書いた、あるいは英訳した英文を non-idiomatic と評する。これを聞くと、多くの方はなるほどと合点がいくと思う。彼らの目から見ると、イディオムのまったく入っていない文章は、異常に感じるのであろう。確かにネイティブが書いたidiomを効果的に使った文章は華麗であるが、自分で英文を書く場合には、間違いのない素直な文章を書くことに集中し、なかなか idiom を含める余裕がない。

また、相当現地の英語になじんだ日本人でも自分の英文に idiom を含めることは難しい。ときには勇気のある侍がいて idiom を多用したりするが、これが辞書からの引用のため、まるで「です、ます文」に「候文」を挿入した感じになってしまう。このような危険を知っている英訳翻訳者はなかなか idiom を使い切れない。

しかし、idiom を含めない英文はまったくお飾りのない七夕の竹のようなものであって、読んで味気ない。そこで、現代文に使っておかしくない idiom は自分で最近の出版物からこつこつと拾っていく以外方法がない。

私が、idiom を一番多く拾う雑誌は BusinessWeek 誌である。日本で言えば「東洋経済」誌あたりに相当するかと考えている。Economist や Times などからあまり格調高い表現を拾ってしまって、それをたどたどしい英文に入れては、文章に味付けするどころかたどたどしい部分が強調されて、かえって逆効果となってしまう。

このような話をすると、実際にどのような表現を拾っていいのかわからないと言う質問を受けることが多い。そこで例を示すと、次の表現は BusinessWeek 誌の 1999 年 3 月 8 日号のクライスラーが資金繰りに困っている日産にテコ入れするかどうかを論じた記事から拾ったものである。

内容が自動車メーカーについてなので、当然クルマ関連の表現が多い。そして、クルマは新しい文明なので、これに関連する表現は使っても危険が少ない。

"Schrempp should take another long look under hood before he signs anything."

Schrempp は、DaimlerChrysler の Chaiman。日産に資金投下する前に、よく日産の実体を調査すべきだと言っているのだが、的確でわかりやすい表現だ。

"Why should these companies be regarded as lemons rather than diamonds in the rough?"

これは、日産のほか三菱、いすゞ、スズキについての評。lemon は、欠陥品、特に欠陥車を表すことは多くの読者がご存じと思う。diamonds in the rough は「道ばたの草むらに落ちているダイヤモンド」ではなく、「まだ磨いていないダイヤモンド」。

"He (Schrempp) should tap the brakes before amassing DaimlerChrysler Nissan. It might appear to be a global automotive powerhouse in the showroom, but on the road it could turn into a clunker."

これが結びの文句で、本当に日本のクルマメーカーに対する見方は厳しい。powerhouse は発電所だが、強力な推進力の意味でよく使われる。そして、clunker はポンコツ車。

このように 1 つの記事で多くの新しい表現に出会えると、得をした気分になるが、では実際にこのような表現の出番がいつあるかは疑問。むしろ、このような作業を繰り返すことにより、ネイティブの発想に慣れることに意味がある。

たとえば、同じ記事からクルマとは関係ないが次のような文を拾った。

"Japan's economic crisis provides what could be a once-in-a-lifetime chance to buy companies like Nissan ....."

a once-in-a-lifetime chance は日本語と同じような発想で覚えやすい。しかし、辞書からこの言い回しを拾えば "Japan's economic crisis provides a once-in-a-lifetime chance ..." と書いてしまいそうなところを、このように雑誌から実際の使用例を拾えば、what could be を入れた方が正確で、英語らしい表現になることに気が付く。やはり、idiom は自分で実際の使用例を集めないと効果的に使えない。

  Business WeekのCD-ROM版(1999/9 月号)

  あいずち - 簡単そうで難しい(1999/10 月号)

気が付かないかもしれないが、何語で会話をしていてもあいずちは重要な役割を果たしている。将来ロボットとロボットが会話をする日が来たら、多分必要最小限のメッセージを交換し、あいずちを挟まないだろう。脳が MPU だから、よけいな負荷はかけない方がよい。しかし、そこで想像されるのは、非常に不自然な会話である。

人間同士の会話の場合、相手が何か言うと、直ちに MPU ではなく脳がスピンを始め、応答すべき内容を考え、それを効果的に表現する言葉を組み立てるわけで、その作業の間を沈黙ではなく、ほとんど自動的に口から出るあいずちでつないでいるので自然な会話が成り立つ。つまり、あいずちは、ほとんど習慣なのである。しかも、同じ日本人でもあいずちの打ち方にはかなり個性があり、それがうまく文化の範囲内に納まっているとおかしいとは思われない。英語でも同じである。

日本語なら、脳はフォアグラウンドであいずちを打ちながら、バックグラウンドで次の発言を作成するというマルチプロセッシングをほとんど無意識に行えるが、それが外国語となると、バックグラウンドの作業に気を取られて、あいずちがおろそかになりがちだ。

だから、日本語が上手な外国人と話していると、あいずちの打ち方がうまい。あいずちとは、それでその人の外国語会話力が見えてしまうほど重要なのである。私の友人で、米国で教育を受け、米国の企業で働いている相当の英語の使い手でも、ネイティブの同僚から苦情を受けているのを聞いたことがある。

日本語で「本当?」というあいずちは頻繁に使われるが、彼は相手が何かしゃべるたびに "Really?" を繰り返したため、相手は「こいつは俺を疑っているのか」と怒りだしたのである。彼の英会話が下手であれば、そのような怒りは買わなかったのだが。おまけに英語のあいずちは、日本語より豊富だ。相手のしゃべった内容に応じて次のようなあいずちを適宜使い分けることが必要となる。

"Oh, yeahhhh?"、"Really?"、"Oh really?"、"Is that right?"、"Wow"、"No kidding"、"You're kidding"、"Man"、"Oh my!、"Holy cow"など。これがよく耳にするもので、まだたくさんあるが、あまり何種類も次から次へと使うのもおかしい。ましてや、自分で勝手に"Is it true?"などと創作しても、これは疑問文で、あいずちにはならない。

しかし、私も偉そうなことを言えない。カリフォルニアで、私の親友(ネイティブ)がよく "What about that!" を繰り返したが、私はそれをあいずちと知らず、私の話した事柄について私の感想を聞かれたのかと勘違いし、さらに自分の意見を述べたりしていた。多くの場合、それで会話は自然に流れたが、ある日彼が何をたずねたいのかわからず、私がおまえは何を質問したいのだと聞いて、これがあいずちだと理解した。あとで調べたら、しっかりと辞書に出ていた。

なお、日本人の中には少し現地に慣れたころ、あるいは映画で学習して、すぐ Bull shit! などと使いたがる人がいるが、これは危険。日本では、貧富あるいは教養の違いにおかまいなく、だれでも読売新聞を読み、会社で日経を読み、電車の中で漫画を見るが、米国は立派な階層社会で、日本人社会とは違う。New York Times や Washington Post は、エリートしか読まない。したがって、私の知っているネイティブで、そこそこの社会的地位のある人は、決して Bull shit などと言わない。小声で BS と言い、それが私に聞こえてしまったとわかると、失礼しましたと謝った。言葉と階層は密接に結びついているのである。

Bull shit で思い出したが、アメリカでは大きな街でも樹が多く、しかも近くに森がある(半砂漠に人工的に作ったロスは河川がなく、6 本の水路でシエラネバダ山脈から水を引いているが、それでも日本の大都市より樹が多い)。したがって、車に小鳥の落とし物をもらうチャンスも多い。上記の友人と用事を終えて私のクルマに戻ったら、ボンネットに白い落とし物がべちゃっと付いていた。ウッという私の顔を見て彼が言った。"It's lucky. A bull never flies over us."

  事物の概念 - 用語の概念をしっかりと把握しないと翻訳はできない(1999/11 月号)

ある操作マニュアルに次のような文章があった。

Using your fingers, pull the filler plug straight out. See Figure 4-1.

これをある翻訳者が「親指と人差し指を2つの穴に入れ、フィラープラグをまっすぐ上に引き上げてください(図 4-1 を参照)」と訳した。図を見ても、2 つの穴はわかるがその大きさと穴と穴の間の距離はよくわからない。この場合には、このように親切に訳すことは危険であり、誤訳となるかもしれない。

この翻訳者も、「親指」を英語で何というかと聞かれれば thumb と知っているのである。しかし、日本語では親指も指だが、英語では thumb は finger ではないと意識していない。この意識があれば、ここは「2 本の指でフィラープラグをまっすぐ上に引き上げてください」と訳すはずだ。

このような国と国、文化と文化、つまり言語と言語の間の概念の差は大きく、だからこそ外国語を学習するときには、このような概念(発想)の違いをしっかりと意識する必要がある。しかも、日常生活のほとんど常識となっている部分が違うので注意が必要だ。よく知られた例で言えば、日本語では長靴も靴の部類だが、英語では boots と shoes は違うものである。

アメリカへ初めて行って、ははーんと思ったのが、このような概念の違いだった。clothing は「衣類」と訳すが、日本語の衣類には靴は含まれないのに対し、英語の clothing には含まれる。したがって、コンテキストによっては clothing を「衣類と靴」と訳す必要がある。次に、上に述べたように shoes と boots は違うので、この 2 つを含めた言い方はないかと探したら footwear という言葉が見つかった。しかし、これを「靴」あるいは「履き物」と訳せるかというと訳せないのだ。footwear には「靴下」も含まれるのである。

まさに事物の概念こそ、その文化に固有で、しかも日常生活にしっかりと根ざしている。だからこそ、ついうっかりと自分の文化の概念を外国語にも当てはめてしまいやすいが、実際には、単語1つ1つを確かめながら自分のものにしていく地道な努力が必要なのだ。

以上は、文化が違うと概念も異なるという例だが、翻訳者はそれを意識する前に、日本語においても概念をしっかりと把握する習慣をつけることが重要だ。翻訳対象の文章に出てくる概念を確実に把握する努力をすることが質の高い翻訳に結びつくので、その習慣がついていれば、それが日本語でも英語でも確かめるはずなのだ。

たとえば、皆さんの中でどのくらいの方々が、よく使われる次の言葉の概念の違いを明確に理解しているだろうか。

「カタログ」と「パンフレット」

「テーブル(表)」と「リスト」

この区別が付かない翻訳者が多い。実は、日本人の商社マンさえ、カタログとパンフレットを混同して使っている人がたくさんいるのである。パンフレットには、製品の美しい写真と特長(特徴ではない)などが載っているが、カタログには、すべての、あるいは代表的なモデルの図または写真とその仕様、そして多くの場合価格が記載されている。パンフレットは、読んでおもしろいが、カタログは性能を技術的に示しているだけである。ちなみに、アメリカでビジネスをしていると、カタログとパンフレット類を合わせた brochure という単語がよく使われる。

テーブルは、縦横のマスがあるが(英米人は日本人ほど罫線を多用しないが)、リストは単に事項の列挙だけの場合が多く、それも 1 行の中に、日本、アメリカ、フランス、と並んでいても、これもリストである。ただし、問題は、すでに「リスト」が日本語となっており、それは英語の list と同じではないので、英文に list と書いてあっても「列挙してあるが」などと訳さなければならないことがあるので注意が必要だ。

  日本語と英語の文章構成の違い(1999/12 月号)

  英文読解力を高めるには - Working Vocabularyを増やそう(2000/1 月号)

技術翻訳、あるいは産業翻訳という作業は、通常の制作作業と違う面があり、質の高い翻訳者ほど翻訳スピードが速い。翻訳マーケットでは、Aクラスの翻訳者の料金と B クラスの翻訳者の料金の差は不合理なほど小さいが、A レベルの翻訳者は翻訳速度が速いので実際の収入を見ると、B レベルの翻訳者よりも、月収、あるいは年収ベースで相当の差がつくことになる。

A レベルの翻訳者の翻訳速度が速い理由は、専門知識が十分にある、専門分野の業界で使われる日本語をよく知っている、そして英文解釈力が高いというような要素が考えられる。そのような条件がそろった翻訳者は、ジョブをもらって英文を読めば、その内容をたちどころに理解し、それに対応する日本文がすらすらと頭にひらめき、あとは自分の入力スピードで日本文を打ち込めばよい製品ができあがることになる。ただし、これは理想像であって、実際には書いてある内容の理解に苦しみ、どのような訳語をあてたらいいのかに迷い、専門書と用語辞典と英語の辞書を引きまくるのが実際の翻訳者像である。その結果としてできあがる製品が、その分野の専門家が違和感なしに読めれば A レベル、専門家が違和感を感じ、ところどころに誤訳のあるのが B レベル、ときには原文と読み比べないと何が書いてあるのかわからないのがCレベル、そして、翻訳した本人を含めてだれが読んでも何が書いてあるのかわからない翻訳が D レベルということになる(これは私の基準)。

上記の要素はどれも重要だが、盲点は意外にも一般的な英語読解力ではないかと思われる。英単語を便宜的に分ければ、一般的な英文を理解するための普通の英単語と、専門分野で使われる専門用語の2種類があって、多くの場合、翻訳者は、自分は普通の英語読解力はあるので、専門分野の辞書さえそろえればよい翻訳ができると考える。そして、現実とのギャップに悩むことになる。

実際には、専門知識が十分にありながら、単純な英文を読みとれずに誤訳をしている例が多い。それは英単語を英米人の発想で理解できないことが原因であることが多い。英日の翻訳にかかわる多くの翻訳者が英日を専門としていて、英語は書けなくても当たり前と考えているが、私は英文を書けない翻訳者に英文が本当に理解できるとは考えない。逆の場合を考えて、あなたが和文英訳を英語ネイティブの翻訳者に依頼する立場にあるとき、その翻訳者が日本語を話せず、書けなかったら、その人に翻訳をお願いする気になるであろうか。ところが英文和訳を請け負う日本人翻訳者については、英語を話せない、書けない、ただ英文を読めますという翻訳者が大部分である。

私は帰国子女でもなく、英語国に合計数年しか住んだことがないが、自分の歩いた行程を見てみると、[1. 一応英文を読んで日本文に転換できる(と思っている)] → [2. 自分のスタイルで英文を書ける] → [3. いろいろなスタイルの英文を読んでニュアンスを理解でき、日本文に転換できる]というステップを歩んできた。そして、周囲の翻訳者を見るとき、多くの方が1の段階にとどまって英文和訳を行っており、2、さらに 3 へと進む努力をしていないように感じられる。

では、どうしたら英語の理解力を身につけることができるだろうか。それは、英文を書くことである。知っている単語の中には、読んで理解できる単語と、それを使って文章が書ける単語の 2 種類がある。重要なことは、working vocabulary あるいは active vocabulary と呼ばれる後者の単語の数を増やす努力である。そして、これは英文を書かずに増やすことは不可能だと言っていい。一番容易な方法は松本道弘氏も勧めている英文日記を書くことである。日常の簡単な事象を英語で書こうとしたときに、いかに稚拙な英文しか書けないかを痛感する。英語ネイティブはこんな文は書かないだろうなと悩む。そして、その問題意識を頭の隅に持って英文を読むと、それを解決する英文に出会える。それは、多くの場合すでに知っている単語で、自分が知らなかったのはその発想(使い方)だったことに気づく。このようにして単語や句を1つずつ拾っていく作業が「読んでわかる単語」を「使える単語」に取り込む作業となる。

英文をいくら多く読んでも、書く努力をしていないと working vocabulary は増えず、増えたかどうかを確認することもできない。ところが英文を頻繁に書くことにより、working vocabulary が増えていくことを実感でき、かつそれによりネイティブの発想を学ぶ楽しさを知り、英文を読む楽しさを知り、より多くの英文を読むことになる。それにより、さらに「読んでわかる単語」が増え、それが「使える単語」に取り込まれるという好循環が始まる。「彼女は厚着をした。」を "She dressed warmly. 「私はうなされてよく眠れなかった。」を "I slept badly." と知っている単語を使って書けるようになる。これがネイティブの発想をとらえる楽しさである。実際の翻訳を見ていても、多くの翻訳者は "In this chapter, we'll set the scene for automating XXX software to do your bidding, laying out the different elements that we will examine and use in the course of this book." などという専門的ではない、平易な部分で躓く(原文の意を汲めず、不自然な日本語しか書けない)のである。

一番容易な方法と書いたが、実は毎日英文で日記を書くことは容易ではない。それは、大人になっても日本語で日記を付けている人の数がいかに少ないかを考えればわかることである。英語であれ日本語であれ、日記が長続きしないのは似たような毎日の生活を漠然と記そうとするからである。私の場合には、高校時代から英語で日記を付け、インドネシアにかかわった 15 年はインドネシア語で日記を書き、この十数年はまた英語で日記を書いている。日記は、毎日ではなく、せいぜい1週間に2日か3日書く。その内容は、ある1日のうちのほんの 1 つの事件(たとえば友人と会って何を話したとか)、夕食を食べたレストランの風景、あるいはその日に終わった仕事の印象とか、とにかく心に残った 1 つのことだけを、自分の人生の記憶に残すべき 1 ページとして、あるいはその日を生きた証として英文で描くのである。それは 1 パラグラフでも 50 パラグラフでも自由だ。

もし数パラグラフを書けるようになったら、自分の書く文にタイトルを付けてみよう。タイトルを付けると自然に導入文を書き、主文を書き、結論を書くようになるものだ。こうして英文らしい文章構成もマスターできることになる。これはすでに日記ではなく、エッセイである。いつか、そのエッセイがたまるのが楽しくなるはずである。そして、1年前に書いたレストランの風景をまた今年書いたとき自分の英文の進歩にうれしい驚きを感じることになる。この文を読んで、1 人でも 2 人でもこのような努力を始める方がいらっしゃれば幸いである。

  日産に見る日本の国際化(2000/2 月号)

BusinessWeek 誌の 1999 年 11 月 15 日号が INSIDE NISSAN というタイトルで日本の日産自動車を特集している。内容は、日産に COO (Chief Operating Officer) として就任したルノーのゴーン副社長による日産自動車建て直し活動の紹介である。

そもそもルノーからゴーン副社長が日産の実質的な社長として送り込まれたというニュースに多くの日本人は驚いたのではないだろうか。その理由は、今年の春にルノーによる日産への資本参加が合意されたときに多くの海外の新聞はルノーによる日産の買収(acquisition)と書いたのに、多くの日本の新聞は「資本提携」と報じたからだ。読者としては、見出しを頭に入れて記事を読むので、たとえ記事にルノーによる日産株の 36.8% の取得と書かれていても、頭の中では「資本提携」として整理され、記憶されてしまう。買収されたのであれば、買収先から社長が来て当然だ。

第二次大戦中に日本軍の敗退を「転戦」と報じ、日本政府の過保護が理由で世界の流れから取り残され、最も非効率的となった金融業、農業、建設業が国際的競争にさらされるようになった最近の動きを「国際化」と呼んだり、そしてこの日産に関する報道記事を考えると、日本人は本来事実を正面から見つめることが苦手ですべてをオブラートに包まないと消化できない民族なのだろうかという疑問を感じる。これでは日本人が欧米人と共通の概念に基づいて話をできるようになる日は遠い。

いずれにせよ、膨大な過剰設備と過剰人員、それに過剰債務を抱える日産は、日本方式による自己努力では体質改善を達成できないことを悟り、ゴーン氏に改革の采配を任せた("Nissan Chief Executive and Chairman Yoshikazu Hanawa has clearly let Ghosn take the driver's seat.")。BisinessWeek 誌の報じるゴーン氏の日産建て直し活動はすさまじい。日産ほどの巨大で複雑な企業の建て直しを、リストラとか合理化という用語を使わずに remaking、drastic makeover というような平易な単語で表現されると完全に会社全体を作り直している印象を受ける。

"Gohn has decided to put Nissan through one of the most painful resturcturing plans the global automotive industry has seen in over a decade." として再建案が紹介されているが、おもしろいのは 'Nissan is permitting Ghosn, dubbed "le cost killer" in France, to take the wheel.' ということで、その結果として当然発生する日本文化と国際的常識(あるいはフランス文化)の衝突についても以下のように報じている。フランス人が日本企業の再建の指揮を執る以上、これは再建案の成否を左右する意外と重要な要因だと思うが、日本のメディアの報道にはこのような視点が欠けているように思われる(筆者が目にした限り)。

English, Nissan's new official language
(これは上層部だけとしても大変な話だ。一朝一夕に実現するとは思えない。)

Some managers believe Ghosn's plan is "very difficult to accomplish." Others find it "complicated." In the polite world of Japanese business protocol, these guarded words express deep anxiety.
(典型的な日本文化だ。)

After the general managers voice their complaints about Ghosn's plans, they beg him to come in person to explain his vision to their team.
(これも、日本文化をよく表している。)

Gohsn has come to symbolize the fight over Corporate Japan's soul.
(思えば、日本の戦後文化は企業文化であった。)

Every meeting, in fact, pits Ghosn as a harbinger of Western ways against the ingrained, inward-looking Nissan culture.
(現在の経済危機を乗り切るには、日本人自身の改造が必要とされている。)

筆者が商談通訳をするときには、日本企業と外国企業の代表双方に気が付いた範囲で「先方の質問は、現地のこのような商習慣に基づいています。」とか「あと、このような質問をしておいた方がいいのではありませんか。」とか「その説明では、このように受け取られるおそれがありますよ。」というようなアドバイスをしている。聖域がなくなって、日本の島ぐるみの開国が始まっている。翻訳者、通訳者とも文化の橋渡しをする実力が求められている。

  BusinessWeek 誌で拾う英文表現(2000/3 月号)

Business Weekの 7月19日号に Japan Inc. Finally Gets An Earful という記事が載っている。今では少し古い号だが、平易な単語を使ったおもしろい言い回しがたくさん載っているので紹介する(下線はすべて筆者が加筆)。

まず上記の見出しだが、earful は「たくさんの不快な情報や苦情」だ。「日本企業も一般株主の不満にようやく耳を傾け始めた」くらいの意味だろうか。

三菱自動車の株主総会について President Katsuhiko Kawasoe had a rough ride at the company's June 24 annual meeting. と総会が例年のように平穏には終わらなかったことを伝えている。そして、Japan's corporate bosses are going to be eating a lot of crow in coming months. と三菱自動車の株主総会が例外ではなくなったことをほのめかす。eat crow は eat boiled crow とも表現され、「屈辱を忍ぶ」こと。なぜか crow に冠詞はつかない。

株主総会がもめる理由は、With the economy stuck in low gear, a record number of companies are pulling the plug on shareholders payouts. ということで、赤字に陥った企業がこれまでも欧米の基準から見て低かった配当金を払えなくなっていること。low gear のようにクルマのギアを表すときには冠詞は付かない。pull the plug on は、「突然支払を中止する」ことだが、「生命維持装置を外す」という意味もある。

Pulverized dividends are the latest sign that Japan Inc. is on its knees. ということで、(fall) on one's knees. は「ついに状況に耐えきれなくなった」ことを表現している。Traditionally, proud companies did everything they could to avoid losing face and chopping dividends-dipping into retained earnings if necessary. と、これまでの日本企業のおよそ資本主義的観点から合理的ではない行動を紹介している。

これまでそんな行動が取れたのは "Before, we still had unrealized profits from our shareholdings in other companies," ... "This year, that is not the case." と、日商岩井のコメントを紹介して、最近の日本の新聞でも報じられているように高度成長期に株の持ち合いとその含み益に基づいて続いてきたなれ合いの資本主義が終わろうとしていることを伝えている。含み益とはこう表現するのかと知った。

ただし、Not all companies, off course, have their backs to the wall. であって、逆にマツダは 5 年ぶりに配当を払い始めたとのこと。have one's back to the wall は「窮地に陥る」こと。

結論として、For now, most Japanese company executives are content to sit tight and take abuse. All the same, they are beginning to realize that they must boost shareholder value to keep investors happy over the long haul. と述べ、株式の持ち合いを解消し、一般株主に長期間に渡り高配当を行うことが株式会社の目的であることが理解されつつあると報じている。これで日本企業の disclosure も進むだろうか。sit tight は「そのまま居座る」こと、All the same, は「それにもかかわらず」、over the long haul は「長期間にわたって」の意味で haul は「輸送期間」を意味する。

この記事を書いたのは日本を含めてアジアに12年滞在しているアジア通の Emily Thornton。彼女は、12月13日号の同誌でも A Big Stink Over Tokyo's Fish Market という築地市場の移転に関するおもしろい記事を書いている。日本に関し、的確な視点から、豊富な表現力でレポートを書く特派員で、今後とも彼女の記事が楽しみだ。

  発想の切り換え - 原文にとらわれない日本語を書くためには(2000/5 月号)

中級レベル以下の翻訳者の翻訳工程を見ていると、頭の切り換えがうまくできていないように見える。翻訳とはどのような作業だろうか。英文和訳を例に考えると、まず英文を読む。読むと同時に記述されている内容を理解しようとする。理解できない単語があれば辞書をひき、専門知識が不足して理解できない部分があれば専門辞書をひいたり専門書を読んだりして書かれている概念を把握する。書かれている内容が明確に理解できたら、その概念を日本語で記述するということになる。

この作業工程で、英語の辞書や専門辞書をひいたり、専門書を読んで内容を十分に理解しようとする努力を省いてしまう人には、よい翻訳はできないし、翻訳者としての技術の向上も望めない。しかし、このような概念を理解する努力を放棄した翻訳者は論外として、実際には正しい態度で翻訳力の向上に努力しながらも、最終的に書かれた訳文が、原文に引きずられて不自然な日本語となってしまう翻訳者も多い。このような方については、意識的に発想の切り換えを行う努力をすることをお勧めする。

発想の切り換えとは何か。上記の翻訳工程において、まず英文を読んで解釈するわけであるが、このときに自分が日本人であることを忘れて、自分は英語ネイティブであると思いこんで英語を読むのである。したがって、この段階では英語を読んで英語のまま記述されている概念を理解するのである。最初は難しいかもしれないが、プロの翻訳者であれば、1 年 365 日のうちの大半の日数を英語を読んで暮らしているのである。英語を読むたびに、必ず英語で概念を理解する努力をすれば、半年もせずにネィティブのつもりで英文を読めるようになるはずである。

そして必要に応じて辞典類をひき、専門書を読み、書かれている概念を把握したら、今度は理解した概念を日本人として日本語で表現するのである。もし自分の日本語でうまく表現できなければ、それはまだその分野を専門分野としてプロの翻訳者として店をはっていく実力がないということである。たとえばコンピュータ分野を専門とするのであれば、日本語でコンピュータに関する文章を書けなければ翻訳ができるわけがないのである。

このようにマインドの切り換えを意識して行って欲しい。英文を読むときには英語ネィティブのマインド、概念を理解したら日本人のマインドで日本語を書くということで、最終的な訳文を原文にとらわれない日本語で書くことができる。多くの方は、英語を読んで概念を理解する段階で、日本人のマインドを捨てきれず、原文を読みながら早くも日本語に置き換えようとしており、概念を理解した後で、日本語を書く段階で今度は英語マインドを捨てきれずに原文に引きずられて自分の日本語を書けずにいる。思い当たる節はないだろうか。

では練習問題に入ろう。次の文は MS Word について解説したもので、非常に平易な文章であり、書かれている概念はすぐに理解できると思う。この文を読むときに日本人のマインドを忘れて英語ネイティブとして意味を理解して欲しい。

Most documents have lists, quoted material, and other blocks of text that deserve (or even demand) to be highlighted. A bulleted list here, a centered head there, and an indented paragraph over there can transform even the blandest document into a more interesting reading experience.

概念を一点の疑念もなく理解したら、今度は純粋の日本人に戻って日本語で表現してみよう。次の試訳とどちらが自然な日本語か比べてみよう。自分の訳が不自然であれば、それは英文を読んで理解するときに日本人マインド捨てきれなかったためか、あるいは日本語を書くときに原文に引きずられてしまったせいか考えてみよう。

「文書には、普通、リストや引用文など、強調した方がよい、あるいは強調する必要のある部分が含まれている。適切な場所で、箇条書きを入れたり、見出しを中央に置いたり、段落をインデントさせたりしてみると、非常に単調な文も、読む人を引きつける文に変えることができる。」

  美しい技術文 - crisp writing (2000/6 月号)

HOW TO SHOP FOR A LAPTOP

From price to weight, here's a guide to the vast array of notebooks on the market

The question I'm probably asked most often by readers is "what sort of notebook computer should I buy?" Most of the time, a definitive answer is impossible because the variety of laptops is too great and my knowledge of your desires and needs is too limited. But I can help you become an intelligent shopper.

これは BusinessWeek 誌(4月3日号)の HOW TO SHOP FOR A LAPTOP という記事の先頭部分だ。何の変哲もない文章で、英語に対する注意力を持っていないと何も得るところなく読み流してしまうだろう。しかし、常に英語ネイティブの書いた文章からネイティブの発想を吸収しようという意思を持って英文を読んでいれば、ほとんどの文章から自分の持っていないものを学ぶことができ、この文章も例外でない。

この記事を読んでまず感じたことは、その歯切れのよさで、名文とは形容しないが、読んで気持ちのよい文章だということである。英語では、技術的な解説書でも、その簡潔で明晰な記述にほれぼれすることがある。残念ながら、日本語では、文芸書でも、技術書でも文章の美しさに感動を覚えることがなくなってしまった。

注意すべき英語の用法を拾ってみよう。

shop: do shopping や go shopping と使うことが多い。めったに他動詞としては使わない。shop for a laptop と言えば、ノートブックを買いに街へ出て、いろいろと見比べて買うという感じだ。

from price to weight: from〜to〜 は幅広く応用できる表現だ。多くの方がご存じのように〜に冠詞を付けない。

the vast array of: 「たくさんの」、「多種類の」を表す表現はたくさんあるが、Collins Cobuild では、array は、その対象の多さが "impressive or attractive" なときに使うと説明されている。日本の辞書で、このような注釈は見たことがない。

on the market: 街の商店で市販されていることだ。bring a product onto the market は製品を市場に投入すること。at the market、in the market という表現もあって、前置詞が変わると意味も変わるので注意が必要だ。

most of the time: ここでは、in most cases と同じ意味。ところで私の知っている限り、こんな簡単な表現も日本のどの辞書にも載っていない。多くの辞書が同様の定義を載せ、同様の誤りをしているのを見ると、日本で編纂している英和辞典は、単に他の辞典の引き写しをしているだけではないかと思ってしまう。最近書かれた英文(刊行物、Webページ)から生きた表現を集めて、現在使っておかしくない表現だけを載せた辞書がなぜ出版されないのだろうか(この観点から、海野夫妻のハイパー英語辞典が好評を博したのはうなずけるが、これはどちらかと言えば辞書ではなく技術例文集だ)。

私が感心したのは、それに続く文章だ。

"a definitive answer is impossible"

"the variety of laptops is too great"

"my knowledge of your desires and needs is too limited"

"I can help you become an intelligent shopper"

どれも自分で書くと冗長な表現になってしまいそうな文で、このような簡単な内容を美しく簡潔に言い切っているのに感心する。このような記事は、ブロック単位か丸ごと自分の用語集に入れておく価値がある。それをときどき読み返して crisp な英文を書く下地を作ろう。

  小説の英語(2000/7 月号)

これまでこのコラムでは、主として BusinessWeek 誌から英文を引用することが多かったが、それは本誌の読者に産業翻訳者が多いのではないかと考えたためと、また筆者自身が普段は産業翻訳に携わっているためである。しかし、日本の説明書に比べれば英文の説明書やニュース週刊誌は表現がはるかに豊富であるが、それでも文学書にはとうていかなわない。したがって、筆者も、BusinessWeek よりも、日記やエッセイなどを書くときに(本年 1 月号のポプリを参照)使えるように、小説の類から英語ネイティブの表現を拾うことの方がはるかに多い。

今回以降、少し米国の小説から表現を拾ってみたい。これらの表現は、自分が普段英文を書こうとして表現力の貧しさに悩むことが多いために読書中に網に掛かってくるもので、問題意識がなければ読み過ごしてしまうものが多い。

今回は、最近読んだ Tom Clancy の Politika から拾った表現をご紹介する。

The lines and wrinkles on his face were a record of the hard times he had weathered. The somber depths of his eyes spoke of survival despite bitter loss.

これは、あるロシア農民の人生を記述した部分だ。weather は「天候」で誰でも知っている単語で、技術関連では weathering test などという用語がある。しかし、人間については、試練や苦難を切り抜けることで、自分のエッセイではあまり使いたくない言葉だ。bitter loss は、この段落の前にある説明から息子と奥さんに先立たれたことを意味する。日本語でも死なれることを「失う」というので英語でも lose を使うことを不思議に思わないが、たとえばインドネシア語の「失う」にはひとが死ぬ意味はない。したがって、やはり「英語の lose には『無くす』と『亡くす』の2つの意味があるのだな」と確認することが必要だ。外国語の修得とは、このように単語をひとつひとつ無限に潰していく作業である。その作業を飽きずに、むしろ楽しみながら行うためには、ネイティブの発想を学習するのだという明確な意識が必要と思われる。そういう意識で、以降の表現を眺めていただきたい。

He opened his eyes. The bookcase opposite his desk doubled and trebled in his vision.

ここで注意を引いたのは、opposite。日本の辞書では必ず opposite to と言う表現が載っているが、現代英語では副詞として使うときには to を使わないことの方が多い。double に続く単語が triple ではなく treble なのであれっと思って収録した。

He moved up to the storefront, shaded his eyes with his hand, and peered in at the vacant shelves.

今まで storefront という言葉は知らなかった。このような単語は和英で探せないので、出会うまでその存在を知らない。暗い店の中を見るために手を額にかざす動作はこのように言い表す。これも自分で考えても書けない表現だ。

There were fifteen or twenty people clotting the sidewalk around him, most of them women in shapeless gray clothing ...

「舗道」を米国では sidewalk、英国では pavement と呼ぶ。この shapeless とか、別の場所に出てきた a dark, well-worn winter shawl などの衣類の状態を表す表現は、拾っておかないと日常の街の様子を描くときに和英辞典では探しにくい。

He felt the snap of bone, and then the guy groaned in pain as his hand went limp, hanging from his arm at an unnatural angle, his weapon clattering to the pavement.

自分では経験することがないことを祈るおぞましい情景だが、unnatural はいろいろと使えそうだ。多くの和英辞典は例文が少なすぎるので、たとえ「不自然」をひいて unnatural が出てきても、どのように使っていいのか迷ってしまう。上記の shapeless やこの unnatural のように否定語は辞書でひきにくく、かつ効果的なことがあるので自分の例文集に入れておく必要がある。上の sidewalk に対して、この pavement は車道である。his weapon 以下は本来なら接続詞か前置詞が必要だが、きびきびした文章を書くにはこのような技法も覚える必要がある。

  小説の英語(その2)(2000/8 月号)

前号に引き続き、Tom Clancy の "Politika" から拾った表現をご紹介する。前号同様に、どのような点に注意し、どのような単語を拾っているかを参考にしていただきたい。

日本人の英語力の弱さはアジア諸国の中でも群を抜いており、その対策として小学校から英語の学習を義務づけるとか、英語を第二国語に指定するなどの案が提議されている。しかし、これまでの方法が量的に不足しているため成果が上がっていないと考える国民はいないだろう。要するに質の転換が必要なはずだ。中学校から大学まで、英語を記号のように考え、言語と文化の深いかかわりとそれに起因する発想の差を意識しない先生方が指導している限り、学習時間を今より増やしても日本人の英語レベルは変わらないのではないかと思われる。

More recently, he'd been keeping tabs on events in Congress that could affect Gordian's plans...

keep tabs on は、「〜に注意する」という慣用句。tab はすでにコンピュータ翻訳ではなじみの深い用語だが、書類などの特定のページをいつも見られるようにタブを付けておくことから、このような「注意して見張る」という意味に発展したものと思われる。日常生活では、ビールや清涼飲料などの缶についている、飲み口を開けるためのリングがタブだ。引っ張ると取れてしまうのが pull tab で、最近のビールのように飲むときも缶に付いたままとなるのが stay-on tab。最近のテレビの番組で缶製造会社のひとがこの後者の方式のタブをずばり「ステイオンタブ」と言って、何の説明も加えなかった。すでにその分野では日本語になっているようだ。

They were at their regular corner table beneath an affectionate caricature of Tiger Woods. A decade ago, when they'd started having their monthly lunches here, the drawing in that spot had been O.J. Simpson.

多くの人が行きつけの店では何となくいつも同じ場所に座ると落着くものだ。usual ではなく regular を使っているので「規則性」を感じる。この affectionate は「好ましい、皆に好かれる」の意味で、英和、英英のどの辞書にもここにぴったりの意味は見つからなかった。O.J. Simpson の裁判はニュースでもさんざ取り上げられたが、昔は affectionate だった Simpson は今では一般的に嫌われている。つまり not affectionate になったと考えると、この affectionate を理解しやすい。私はこのような affectionate の使い方を見たのは初めてで理解に苦しみ、この解釈はカリフォルニアにいるネイティブの友人に問い合わせて教えてもらったもの。

They waited some more. The people around them were mostly political staffers, reporters, and lobbyists, with a sprinkling of tourists hoping to catch a glimpse of someone important.

ときどき間違える人もいるが、staff は集合名詞で、ひとりひとりのスタッフは staffer だ。lobbyist のスペルは lobbyst と誤りやすい。a sprinkling of はまばらに混じっている感じでイメージしやすく、覚えやすい表現だ。glimpse に似た表現に glance があるが、前者は「見えること」で後者は「見ること」の差がある。したがって、取る動詞もcatch a glimpse of ...と cast a glance to ... の違いがある。このような単語は動詞までいっしょに覚えておく必要がある。

P>Once a month, he broke free of all dietary shackles to become a wolf, a carnivorous alpha male, sinking his fangs into bloody flesh after a successful hunt.

厳しいダイエットをしている人には、うん、うん、とうなずきたくなる表現だが、心情的に日本人には大げさに感じられ、とてもまねをする気にはならない。alpha male というのは猿山のボス猿のように雄の動物の親分だ。fang は動物の鋭い犬歯で、ここでは比喩的に使っている。人間の犬歯は eyetooth という。

Gordian paused a moment, caught the waiter's eye, and motioned at his empty beer mug.

これは Gordian が隣にいる連れ合いとの会話を一時打ち切ってビールの追加を頼む場面だ。このような日常的で何気ない動作を描けると、自分で書く日記やエッセイが立体的になる。waiter に the が付いていることに注意。特にこの文の前にこのウェイターが登場しているわけではない。アメリカではチップをもらう関係上、一度テーブルに付けば担当のウェイターは自動的に決まるので the だ。これが日本の情景であれば a waiter とすべきだ。motioned at ... は、自分の空のジョッキを指さしてもういっぱいくれと合図したことを簡潔に表現している。

  贈り物文化 - 翻訳者、通訳者は、文化の差を伝えることも仕事のうち(2000/9 月号)

2回続けて小説の英語について書いたので、ちょっと小休止して話題を変えてみたい。どの国にも言語があり、文化があるが、言語と文化は表裏一体の関係にある。言語なくしては文化は育たず、逆に1つの言語を話す国民が共有する常識という文化的背景がなくては言語は成立しない。

日本の英語教育がなぜこれほど成果が上がらないかというと、それは言語と文化と切り離して、言語を無味乾燥な記号の羅列方法として教えているからだと思う。言語は記号や暗号とは異なるので、その言語が背景に持つ文化を置き去りにして、単に単語と文法を暗記しても、その言語を学習することはできない。

したがって、翻訳者、通訳者は、ソースとターゲットの 2 つの言語の背景にある2つの文化の差を知らずに的確な翻訳、通訳を行うことはできない。そのような文化の差を知り、その差を伝達する努力をしていない翻訳者、通訳者がいれば、その方たちは言語を記号扱いしていると言える。翻訳者、通訳者は、常に2つの言語および文化の間には発想の差と文化の差があることを意識し、それを自分の中で明確に定義する努力を忘れてはならない。 こう言っても、そもそも「文化」とは何かさえもよく認識せずに、翻訳、通訳に従事してる方も多い。今回は、文化の観点から、「贈り物」について考えてみよう。文化とは、特定の地域、国に特有の、多くの場合過去の必要性から生じ、現代的な合理性を評価の物差しとしては使えない習慣である。では、贈り物はどの国にもある習慣であり、日本でもアメリカでもギフトを贈る。それは「文化」なのだろうか。

答えは YES である。ギフトを贈る習慣は、どの国でもさまざまな必要性から発生し、生活に根付いているため、その地域の歴史なり、民族性を色濃く反映しているのが普通である。アメリカではギフトは相手が必要としていて、もらって喜んでもらえるものを贈るのが普通である。本来、これは贈り物の原点であるはずであるが、それを純粋に貫いているところがアメリカの国の歴史の新しさを示すとともに、民族合理性をも示している。

日本でも贈り物とはそういうものだと言う方がいるだろうが、そうではない。日本の場合には、誕生日や母の日、父の日に贈るギフトは相手の状況を考え、本当に喜んでもらえそうなものを一生懸命に見つけて贈るかもしれないが、それ以外に「お歳暮」、「お中元」、「葬儀のお返し」、「結婚式の引出物」、「出張でのビジネス相手への土産」など儀礼的なギフトが社会で大きな役割を果たしている。

海外で日本企業の駐在員をした経験がある方ならだれでも知っているだろうか、日本の本社から出張者があると、必ず取引相手の企業の担当者におみやげを持ってくる。これはアメリカの企業でもないわけではないが、おみやげの内容は企業のロゴ入りのギブアウェイなど本当に挨拶代わりの価格のはらないものが多い。ところが日本企業は、贈り物を渡す相手の肩書きと贈り物を持ってきた出張者の本社での肩書きにより、内容が異なるのである。このため相手企業の役員などは、突然何の理由もなく高額のおみやげをもらい、とまどうことになる。この場合、日本側は相手の必要性を考えておみやげをギフトとして贈るのではなく、「贈ること」と「贈ったものの値段」に意義を認めているのである。

最近葬儀を経験したが、ここにも日本人の非合理性が色濃く反映されている。葬儀という行事においては、弔問者が遺族に渡す香典、それに対して遺族が贈る「お返し」という2つの贈り物がやりとりされる。しかし、香典は先進国では異例なほど高額で、しかも驚くことにそれで遺族が助かるわけではない。遺族は通夜と告別式で相当の食事を用意し、後日半返しのお返しをすると、ほとんど香典を使い切ってしまい、先進国では異常に高い葬儀費用の一部に回せる部分は少ない。ここでも、とにかく「贈ることに意義がある」という日本文化の特性が目立つ。

一方、駐在員時代にアメリカ人の徹底的な合理性に感心させられたのが結婚式だ。結婚するカプルは自分のなじみのデパートで販売している商品で新婚生活に必要なもののリストを作成して、そのデパート(複数の場合もある)に登録する。彼らに贈り物をしようとする友人や親戚は、そのデパートへ行って結婚式の贈り物用のディスプレイでカプルの名前を打ち込む。表示された価格付きの商品リストから時計やディナーセット、家電製品など自分の予算に合った商品を選択して代金を支払う。自分の予算で買えるものがなければ、ディナーセットの半額でも、その中のスプーン1本でもかまわない。不足分を他の友人で支払う人がいなければ、その分を結婚するカプルが支払えばいい。後日代金がすでに支払われた商品とその支払者のリストがカプルに送り届けられる。こうして、新婚カプルは本当に必要なものが手に入り、贈る側も自分の予算の範囲内で喜んでもらえる贈り物ができる。

これだけ近い関係にある日米間で、なぜこのような合理的な習慣が日本に輸入されないのか本当に不思議だ。それが文化の文化たるゆえんであろう。

  英語ネイティブの発想のいくつかの特徴(2000/10 月号)

これまで述べてきたように、英米人と日本人では文化的な背景が異なるため、それぞれの言語を使ってものごとを表現するときに大きな発想の差が見られる。このような差は自分の文化に立脚して相手の言語で書かれた文章を読んでも、なかなか気がつかない。日本人が英語ネイティブの書いた英文を本当に理解するためには、英語の単語ひとつひとつに込められた英米人の発想を理解する必要がある。そのためには、丹念に英文を読み、彼らが個々の単語をどのように使っているかを調べる必要がある。それが、私のこの連載を通じて強調したかったことである。

このような発想の差を一般化することは危険であるが、たくさん英文を読んでいると次のような際だった特徴があるのに気が付く。

  1. 英語では、段落を中心とした文の構成がはっきりしており、文から文、段落から段落への意味の流れが明確である(1999年12月号の本欄参照)。
  2. 英語表現は大げさなので、修飾語を割り引いて訳す必要がある。
  3. 英語では、無主物が主語となることが多いが、日本語に訳すときには人間を主語に言い換えた方が自然な日本語となる場合が多い。
  4. 英語の否定的な表現は肯定的に、肯定的な表現は否定的に訳した方が自然な日本語となることがある。
  5. 複数の項目が並列に記述される場合に、しばしば日本人の発想と順序が異なることがあり、その順序を変えて訳した方が自然なことがある。

次に 1 の例をいくつか挙げてみたい。

a. 特に気を付けなければならないのは形容詞や副詞の最上級である。日本語では「最高」や「最善」は 1 つしかないが、英語の "the best" や "the most" や "the first" は多くの場合複数あると考えた方がよい。したがって、通常は英語の最上級は「非常に」くらいに訳すのが適当である。

(例)If MS Word is new to you, the feature you'll probably use most in the beginning is the Office Assistant.

「MS Word を初めて使用する際に、最初に最も頻繁に利用する機能は、おそらく Office アシスタントでしょう」は、かなり良くできた訳だが、それでも日本語の最上級は気になる。「Word を使い始めて、その機能に慣れるまでは、多くのユーザーが Office アシスタントを頻繁に使うでしょう」と工夫した方が自然に感じられる。

(例)With that move, Prime Minister Vajpayee removed the single biggest hurdle to wiring India for the Internet age.

逆に、この文の the single biggest hurdle は、「最大の障害」で十分で、「唯一、最大の障害」とすると、日本語としては冗長である。

b. 最上級が使われていなくても、every、all などの表現やその他の副詞でも割り引いて考える必要がある。

(例)It seems like every computer book has a chapter titled, "What You Need to Know to Get Started."

この文は、日本語で「ほとんどすべてのコンピュータ解説書には」と訳したのでは大げさすぎるので、「多くのコンピュータ解説書には」くらいにレベルを落とさないと自然な日本語にならない。

(例)Magically, Word usually provides help on whatever you happen to be doing in your document.

この Magically は、「魔法のように」は論外として、「不思議なことに」でも強すぎる。「Word 上でさまざまな編集作業を行うとき、ほとんどの場合に Word はどのような作業が行われているかを感知していて、必要なヘルプを表示します。」というように Magically を省いてしまっても原文の意図はほぼ正確に伝えられる。この訳では、usually も「常に」ではなく「ほとんどの場合」として抵抗のない日本語に仕上げている。





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